エピソードを少しずつ公開します。 お楽しみに!
おかげさまで青年部は、設立25周年を迎えることができました!
ご案内
愛知めがね組合青年部は1988(昭和63)年の発足以来、今年で設立25周年を迎えることができました。これもひとえに皆様のご協力のたまものであると深く感謝しております。
これを機に青年部では、「愛知の眼鏡今昔物語展〜なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡」と称した展覧会を開催致します。
本展におきましては、愛知めがね組合加盟店が所蔵する明治・大正・昭和・平成の眼鏡や眼鏡に関する貴重な資料を、実物や写真などで展示します。
職人技が光る明治の眼鏡、大正ロマンを感じさせる眼鏡、戦時の画一的なデザインの眼鏡、そして戦後の高度経済成長期に愛知県で開催された日本初のメガネファッションショーの写真やハイテクを駆使した現代の眼鏡などを一堂に展示し、眼鏡の流行やデザインの変遷をたどることによって、楽しみながら眼鏡について学ぶことができます。何卒是非ご高覧ください。皆様のお越しを、心よりお待ち申し上げます。
天文年間に伝えられたザビエルの贈り物
眼鏡の伝来が最初に記録に現れるのは、1549(天文18)年、キリスト教布教のために日本に上陸したスペインの宣教師、フランシスコ・ザビエルが用意してきた土産品のリストです。
眼鏡の製作については、1615(元和元)年から1624(元和10)年までの間に浜田弥兵衛が蛮国で眼鏡製作技術を習得して帰国したとされ、1634 (寛永11)年には明の僧、黙子如定(もくすにょじょう)が長崎で眼鏡の 製造法及び玉摺りなどを伝えたとされています。
江戸時代の眼鏡枠の製作を手がけたのは、飾職のような立場の職人であり、 眼鏡はまさに手細工の賜物でありました。国内で製作された眼鏡の素材には、 白鼈甲・鼈甲・水牛・馬爪・木製・あるいは金属製のものなどがありますが、その大半は鼈甲・水牛・馬爪でした。金属製の枠は珍しく、幕末期になってようやく真鍮製のものが増加してくるようになります。
〔図版=愛知めがね組合に加盟する眼鏡店が発行した社史『ザビエルの贈り物』(1991年)〕
長崎と名古屋を往復した水口屋の交易係
1697(元禄10)年、京都で呉服を商う水口屋小川傳兵衛が名古屋に来て店を開きました。やがて水口屋小川傳兵衛は1795(寛政7)年、伊藤次郎左衛門などと肩を並べる尾張藩御用達商人になりました。 この水口屋で長崎と名古屋を往復し、廻船のことを担当した一人の交易係がいました。名を千歳屋庄三郎といい、長崎で珍しい舶来品があればこれを買い付け、名古屋へ送っていました。 さて、その庄三郎が長崎で見たものとは…。
鎖国時代の南蛮貿易でオランダや清から珍しい品々が運び込まれる中、実は長崎には、眼鏡の製造方法や技術も伝えられました。長崎は当時、 国内最先端のを行く眼鏡業者の揺籃地でもあったのです。庄三郎が長崎で見たものの中には、舶来品の眼鏡や国産の眼鏡があったはずです。その庄三郎、子孫が眼鏡屋をはじめるようになるとは、夢にも思わなかったことでしょう。展示品は、眼鏡屋が今に伝える当時の名残です。
〔図版=オランダ製遠眼鏡(江戸時代・長崎経由)〕
〔図版=中国(清)製眼鏡(幕末の頃・長崎経由)〕
〔図版=金唐革眼鏡入れ〕
〔図版=鮫皮漆塗眼鏡入れ)〕
〔図版=べっこう鼻眼鏡と専用眼鏡入れ〕
〔図版=眼鏡入れ〕
名古屋市鶴舞中央図書館には、 江戸期名古屋の豪商・水口屋小川傳兵衛家に伝えられた『水口屋文書』が、 貴重な特別集書として大切に保管されています。
古文書の読める方は、おもしろいかも…。
職人による手細工から機械生産へ
明治初期の頃には、水牛や馬爪、真鍮などを材質とした紐掛け眼鏡や「松葉の頭痛おさえ」といわれた眼鏡、そして鉄や真鍮で作られた差込手の眼鏡などがありました。
明治4年になると眼鏡用裏隙地金(玉を入れる溝金)が作られ発売されました。それまでは縁と玉の間に燈心を挿し込んで使用していました。築高眼鏡、いわゆる天狗といわれた形の眼鏡もこの頃に出ました。
四つ折り眼鏡も鉄や真鍮などで作られ、明治7年頃には蟹手と称した、眼鏡の腕を内側に折り込むタイプのものが現れました。また鼻の形にわらび形を用いたり、眼鏡の腕に桐花形が用いられ始め たのもこの頃です。
そして明治10年頃になると政府の近代化・殖産興業政策によって眼鏡の貿易が本格化し、国内においては眼鏡縁製作の分業が始まり、メッキの研究も進み、眼鏡は手細工職人による製作から機械生産のものへと移り変わり、量産されるようになりました。
〔図版=支柱天狗眼鏡(明治時代)〕
〔図版=鼻眼鏡(明治時代)〕
〔図版=こめかみ眼鏡(明治時代)〕
〔図版=松葉鼻差し込み眼鏡(明治時代)〕
〔図版=松葉鼻眼鏡(明治時代)〕
職人と技術者の間には相違がありますが、愛知めがね組合の青年部員は今年も 「尾張名古屋の職人展」に参加し、その心意気を伝えています。
セルロイド枠の運命
セルロイド枠は1907(明治40)年頃、鈴木定吉(伊勢定)によって試作されたましたが、あまり製品として取り扱われませんでした。
そして1917(大正6)年頃にアメリカから輸入された、いわゆるロイド眼鏡とよばれる形のセルロイド枠がようやく脚光を浴びることになります。これは、人気喜劇役者のハロルド・ロイドが映画の中で装用していたため、結果として良い宣伝となったためにブームを引き起こしたともいわれています。
しかし、素材に用いられたこのセルロイド、長期にわたる光や酸素などの影響を受けると、元のセルロースと硝酸に分解・劣化して、べとついたり亀裂を生じやすいという欠点があります。このため長期保存には向かず、無傷で現存している眼鏡は多くありません。
また、分解過程で強酸性ガスを発生させ、セルロイド自身や周辺の金属などを腐食させるため、眼鏡屋で大切に保管されているセルロイド枠も、時間の経過とともに劣化の一途を辿っています。本展を機に、今後はその保管方法について、検討を始める予定です。
〔図版=セルロイド製鼻眼鏡〕
〔図版=セルロイド製こめかみ眼鏡〕
歴史の証拠品が消えてしまうようで、なんだか、さびしいよう…。
バネ式鼻眼鏡
ヨーロッパでは19世紀後半になると、鼻眼鏡の人気が高まり、男女を問わず流行しました。鼻眼鏡のデザインは豊富になり、縁無しのものや鎖付きのものまで様々でした。
1898年イギリスの『アンサー』という雑誌に、ある読者が鼻眼鏡を掛けることの利点について、次のように述べています。
「ある種の顔が眼鏡を掛けることで見よくなるということは別として、眼鏡はそれを掛けている人間にとって本当に役に立つものである。私は家でも討論会場でも、議論をしている間眼鏡を掛けていること にしている。それをいじくりまわしている間に、私は自分の考えを正すことのできる貴重な数秒を、誰にも気づかれずに勝ち取ることができるのである。もっと長い時間が必要な場合には、私は巧みにその厄介物を鼻から落としてやることにしている。」
(参考文献『メガネの文化史』 リチャード・コーソン著 梅田晴夫訳 1999年 八坂書房)
〔図版=鼻眼鏡(明治〜大正時代)〕
おシャレな鼻眼鏡を掛けても落としてしまっては、鼻が高くいられませんね…。
愛知・名古屋発! 業界を震撼させた特許紛争
大正時代、全国の眼鏡業界に波紋を投じた雲浦事件。これは、当時フランクリン式と呼ばれていた遠近両用レンズの貼り付け玉に工夫された特許権争いで、1920(大正9)年に名古屋市南区熱田傳馬町の雲浦民藏氏が侵害訴訟を起こしたものです。
東京がまず係争し、大阪にも波及。1921(大正10)年に東京側の業者が敗訴し、再度抗告審判を請求するに至りました。
ところが、係争中であった1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生。特許局にあった関係書類はすべて焼失し、結局、無条件和解に持ち込まれました。
当時、眼鏡業界を震撼させた名古屋発のこの係争問題は、今日でも業界の語り草となっています。
〔図版(上)=『雲浦式遠近両用眼鏡之意義』 雲浦民藏 (大正9年10月発行)〕
〔図版(下)=当時の二重焦点レンズ〕
たった一人で業界や有力者たちを相手にした 雲浦民藏氏。なかなかのアイデアマンでした。
中部レンズ業界の祖、下村末吉翁
1919(大正8)年、名古屋市東区新出来町に眼鏡のレンズ工場が誕生しました。レンズ工場の名は、当時共同で創業した眼鏡屋(玉水屋)とその出身者(柴田義一氏)のイニシャルに因んで、「TSレンズ工場」。
しかし、餅は餅屋。質の高いレンズ製作にはやはり経験豊かで優れた知識を持つプロの技術者を必要としました。
そんな折の1923(大正12)年、関東大震災が発生。当時国内最高水準にあった東京の松島商店レンズ工場長であった下村末吉氏も、この難を逃れることはできませんでした。
この情報を入手したTSレンズ工場の経営者は、さっそく下村末吉氏をTSレンズ工場の工場長として招聘。東京から一家徒弟を引き連れてやって来た下村末吉氏指導のもと、TSレンズ工場はより質の高いレンズの効率的な生産を始めるに至りました。その後下村末吉氏は独立して「下村レンズ工場」を興し、中京レンズ業界の発展に大きく貢献しました。
その徒弟からは、今日の愛知県下にある複数のレンズメーカーの創業者を輩出し、下村末吉氏は中部レンズ業界の祖として仰がれるようになりました。
〔写真=在りし日の下村末吉翁(右)と柴田義一氏(左)〕
〔下村末吉翁頌徳碑〕
1960(昭和35)年、下村末吉氏を顕彰するため八事興正寺境内に『下村末吉翁頌徳碑』が建立されました。
ちなみに全国を震撼させた雲浦式遠近両用レンズを生産したのも、この下村末吉氏の工場です。
〔図版=TSレンズ工場定価表(大正11年8月)〕
〔図版=TSレンズの袋(大正時代)〕
熱血眼鏡人250余人が参集
1926(大正15)年2月8日から3週間にわたり、昼夜2回ずつ開講する未曽有の眼鏡学講習会が、大阪・長堀の大紙倶楽部で開催されました。
講師を務めたのは、アメリカ・サウスブリッジにあるアメリカ眼鏡製造会社技師のデスモンド氏。アメリカ人から眼鏡学を学ぶという珍しさもあって、この講習会は大変盛況なものとなりました。
また、「牛の目玉を毎日バケツいっぱい持ち込んで眼の組織を解釈する」という触れ込みもあって、北海道から九州までの好奇心旺盛かつ研究熱心な眼鏡業界人250余人がこの講習会を受講しました。
名古屋地区からも11人の眼鏡マンが受講し、眼鏡学の黎明を肌で感じる貴重な機会となりました。そしてその中の一人の眼鏡マンが、やがてこの地に開設される眼鏡学校の礎を築くことになりました。
〔写真=全国眼鏡学講習会(デスモンド講習会) 1926(大正15)年中之島市立図書館前にて撮影(玉水屋所蔵)〕
〔写真=米国眼鏡士デスモンド氏(『眼鏡学講習録復刻版』より 発行:大阪眼鏡専門小売協同組合1981(昭和56)年〕
眼鏡人ならば一度はデスモンド講習会の眼鏡学講習録を読んでおきたいものですね…。
住込み、そして結婚や婚約についても…
〔写真=眼鏡屋の丁稚(明治43年頃)〕
眼鏡屋にも江戸・明治時代から第二次世界大戦の終結まで、「丁稚」という商店主育成制度がありました。ここでは眼鏡屋に伝わる戦前(昭和)の「店員手帳」と「清規」の中から、当時の丁稚制度がどのようなものであったのか、少しだけご紹介致しましょう。
清規
丁稚制度は第二次世界大戦後、GHQの指令により労働法規が整備されたことや義務教育の年限が9年に延長された結果、「長期間の住み込みによる衣食住以外は無給に近い労働」という丁稚奉公のスタイルを維持することが困難になりました。丁稚を採用していた企業は近代的な契約による従業員に衣替えさせ、これにより、200年以上の歴史を持っていた丁稚制度は消滅しました。
戦時体制下のフレームとレンズの単純化
準戦時下ともいえる1936(昭和11)年、商工省の要請により臨時産業合理局眼鏡単純化委員会が設置されました。この委員会でフレームとレ ンズの規格標準化が決議され、翌年から実施されることになりました。
その後1940(昭和15)年には愛知県指令によって名古屋地区の眼鏡小売協定価格が発表され、全国的に注目されました。これが翌年の商工省による公定価格決定の基礎づけとなり、同年にはいわゆる○公が施行されました。
こうした戦時体制の進捗により、愛知の眼鏡業界も時代の大きな旋回期に突入せざるを得ませんでした。当時の眼鏡に括り付けられた○公のタグが、声なき声でその時代を物語っています。
○公=まるこう (丸公) とは、日中戦争下の価格等統制令、および第二次大戦後の物価統制令による公定価格を示す表示のことです。眼鏡にとり付けられた「○公」印を、探してみてね!
ご参考までに昭和初期の眼鏡枠カタログをご紹介します。
ギブミーア…
戦後の進駐軍もまた、眼鏡を購入するために眼鏡屋へやって来ました。言葉の壁こそあったものの、英語で書かれた眼鏡処方箋(ドクターによる、眼鏡を作る際の度数などを記した指示書)はほぼ共通で、眼鏡屋は正確な眼鏡調製をすることができました。
進駐軍がもたらした眼鏡処方箋一枚の中にも、これからの時代には国際化や標準化が必要であることが見てとれます。
そしてもう一つ、進駐軍と眼鏡屋の関係で忘れられないエピソードがあります。それは、今あなたが立っているこの場所(展覧会場)が舞台となりました…。
ヒント…進駐軍の将校夫人さんが、と〜っても珍しいものを持っていたよ。 続きはこのあとのエピソードで!
青い瞳の上に隠されたヒミツ
1951年、当時眼鏡店に勤務していた田中恭一氏(当時19歳)が、米軍将校夫人との出会いをきっかけに、日本で初めての角膜コンタクトレンズを誕生させました。
その後、田中恭一氏は株式会社メニコンの創業者となり、現在では会長としてご活躍されています。
●米軍将校夫人:私、コンタクトレンズを持っているのよ。
▲田中恭一氏 :なにそれっ!? ちょっと見せてヨ!
●米軍将校夫人:だめっ!
▲田中恭一氏 :それなら、自分で作っちゃうぞっ!
…当時、だいたいこんなやりとりがあったそうです。
ご参考…展覧会場を訪れたメニコン創業者の田中恭一氏(中央)
眼鏡店勤務時代のお話から進駐軍将校夫人との出会い、そしてコンタクトレンズの開発秘話などをお聞かせいただきました。
〔写真=2013年10月12日(土)ギャラリータマミジアムにて〕
「コンタクトレンズを見せてもらっていたら、自作せず、眼鏡店主になっていたかもしれません」とメニコンの広報さん。今も営業している玉水屋の店頭には、「コンタクトレンズ誕生の地」の記念板が掲げられています。お立ち寄りの際は、是非玉水ビル正面の外壁に据えられた記念プレートをご覧ください。
めがね娘が東山動物園でゾウ呈式
1950(昭和25)年10月10日、全国一斉に行われた眼の愛護デーを機会に、名古屋市主催、中部日本新聞社後援として、「めがね娘」が募集されました。
これは、特に眼の美しい健眼者及び正しい眼鏡を使用している衛生と調和美を持つ女性三人を選奨し、眼の愛護運動を推進することが目的でした。
めがね娘の応募資格は、満18歳から25歳までの女性。審査員は画家太田三郎、美容師加藤芳子、名古屋市立大学病院眼科部長中村清一郎、 名古屋市保健部長曽我幸夫の諸氏で、選ばれた「めがね娘」3名には、賞金各5,000円、副賞として名古屋眼鏡協会賞が贈呈されました。
また、この行事の一環として「象の眼鏡贈呈式」や「めがね娘街頭行進」、「街頭眼鏡検診」、「学童写生会」などが催され、新聞報道にも大きくと り上げられ、眼鏡業界初のキャンペーンとして注目されました。
象さんの眼鏡は、ブリキ製だよ。
日本初のメガネファッションショーは、1955(昭和30)年に愛知県で開催されました!
1955(昭和30)年、愛知県文化会館にて日本初のメガネファッションショーが開催されました。当時発行されたプログラムの中から、愛知県文化会館美術館(現・愛知県美術館)の初代館長であった太田三郎氏による寄稿文をご紹介します。
メガネファッションショウによせて
名古屋大学眼科教授 小島 克
眼は心の窓といわれているが、日本の女性風俗史でも独自な浮世絵には春信、歌麿、国貞、英泉とそれぞれ独特な風装と女の眼を描いてそれぞれの時代を吾々に懐かしめている。
女の人にはその人にふさわしい身だしなみや、やさしさや、その人の眼に独自な各々の美しさを秘めている筈である。
眼鏡は女の人にとって必要以上に敬遠されている。外国の女の人たちの眼鏡のこなし方は吾々に奇異な感じを与えないが、それは全体のファッションの中に巧みに眼鏡が調和されて美しさを放っている為であろう。日本の女の人にもその人それぞれの服飾や姿態の中に眼鏡がうまくマッチされれば、徒に眼鏡を敬遠するという現在のあり方がよほど是正され近視に対しても効果をあげると思う。
眼鏡をかける必要のある殊に女の方たちが、個性を生かす身だしなみとそれに調和した近代的な眼鏡の装用で本来の美しさを表現するという試みは、昭和の考現学からみても眼鏡製作の発達の上にも、眼鏡にたずさわる方々の新しい分野として有益な仕事である。
今回当地方としては初めての試みであるが諸方面の研究者の発表がある様でこれによって、服飾の中に生かされた眼鏡が、今迄眼鏡を敬遠された特に女の方々の眼の美しさにとって又、眼鏡を扱う方々にとって新しい感覚と考え方を与えられる事であろうと、近代的な試みとして秘かに期待するものである。
〔図版=『「めがね」のためのファッションショウ』プログラム表紙(発行:名古屋眼鏡商業協同組合/1955年=昭和30年4月15日)〕
眼の美 眼鏡の美
愛知県文化会館美術館長 太田三郎
(注1)(注2)
眼はたゝ``ちにそれが人格である。肉体のすべてゝ``ある。ひいて、それが有つ魅力は絶対である。アナトール・フランスは眼の魅惑の反応を叙して、「美が起す悲壮な戦慄」といつてをり、江戸の文人は、「諸国諸大名の弓矢」に等しい力を、「本町三丁目糸屋の娘」の眼にみとめてをる。
おのづから、眼は人体の美しさの中心である。「古事記」が相婚の意味をまぐあい(目合)の語で表現してをるとほり、人体の感覚のすべてゝ``ある。だから古来、埃及の女は眼瞼をアンチモアーヌの墨で濃く太く縁取つて、特に眼のシヤルムを強調し、印度の女も黒いアンジヤナの粉末を瞼に塗つて眼を際立たせた。亜拉比やイスラエルの女たちもまた、同じ努力払つたことは、「千一夜物語」や「旧約聖書」の語るところである。
いま、名古屋眼鏡商業協同組合(注3)がゼミナールを催して、眼鏡と美容についの関聯を究めやうとするのも、これまた、しょせんは美に対する人類の希求として、数千年来の伝統の現れの一つを示すものであらう。眼そのものゝ自然の美しさを傷ふことなく、しかも装身のアクセサリイとして、その存在を理由づけ得るならば、この企ての効果は大きからう。
〔図版=『「めがね」のためのファッションショウ』プログラム表紙(発行:名古屋眼鏡商業協同組合/1955年=昭和30年4月15日)〕
パーテイの席では、ドレツシーに…。
美術品になった眼鏡屋の看板
1960(昭和35)年夏、眼鏡屋の主人が奇抜な屋外広告看板の制作を陶芸家に依頼しました。アフリカ、コンゴ地方に住む部族の舞踏用仮面をモデルとしたこの看板は、長い間眼鏡屋の外壁に設置され、雨・風・雪にさらされる中、 店のシンボルとして親しまれてきました。
ところがこの看板、年月を経るごとにその貴重性が高まり、いつしか美術品としての価値が与えられ、今では美術館や博物館などで展示されるようになりました。
「看板を作る」
文:河本五郎
津田さん(玉水屋七代目)が訪ねてきたのは、たしか、夏のはじめの頃だったかと思う。 津田さんという人は、なかなかのアイデアマンと聞いていただけに予感はあった。手に何やらパンフレットらしきものをヒラヒラさせているのも何か臭い。
話しは、新しい店の表に何か焼物で作った彫刻様の「モノ」を取りつけたい。もち論、目を象徴した「モノ」を(看板とひとことも云わなかったのは陶芸に敬意を表してか?)、たとえばこんなものはどうでしょうと、くだんのパンフレットの一ページを私に見せた。
素晴らしい目だ。頭の毛は抜けてしまった、アフリカ人の舞踏面である。アメリカの博物館で見てきたものであるよし。私は知った、眼鏡屋主人の惚れ込んだわけが。
日本の古い伎楽面に共通したグロテスクなものだが、ハニワ土器の少女の目と同様、カラッポの球体をカミソリの刃でスーッと切り抜いたとき出来る、洞のような神秘性。しかし、奇妙に艶っぽい。
なんとかその目を生かした「モノ」をと引き受けたものの、ドラムカン大の大物だけに手こずりながら、どうやら目を光らせたタコ坊主が窯から担ぎ出されたのはすでに秋近い頃だった。
落成式の日、玉水屋へ入ったら、半年近く悩まされた艶なるタコの目がギョロりと私をみつめていた。
(文:河本五郎/雑誌『名店百選』No.2/1965年名店百選会発行)
(写真:玉水屋建築装飾用陶芸品を制作中の河本五郎氏/1960年)
たかが看板、されど看板・・・。
高度経済成長期からバブルの時代まで
1960年代までの高度経済成長期の眼鏡フレームは、おとなしくてオーソドックス、そしてやや画一的なデザインが一般的でした。
巷の服飾ファッションにミニスカートやパンタロンが流行するようになると、眼鏡にも個性や多様性が求められるようになり、やがて海外から個性的で大型のデザイナーブランドフレームが輸入されるようになりました。
そして1980年代のバブル期が到来すると、高級ブランドの眼鏡フレームが次々と輸入されるようになり、また国内ブランドのものもDCブランドブームに乗じて、眼鏡も個性を競う時代となりました。
〔図版=1970年代に使用された眼鏡店DMはがきより。フレームはMETZLER Model No.5431(女性用)とModel No.3547(男性用)〕
大型化したデザイナーブランドの眼鏡を陰でささえたのは、プラスチックレンズの普及でした。昭和50年代後半の市場ではガラスレンズを抜き、その後もめざましい技術革新によって高品質化、高性能化、高機能化し、今日では眼鏡レンズの主流素材となっています。
なんと、熱田神宮境内に建立された「眼鏡之碑」!
1982年(昭和57年)10月10日、熱田神宮境内の由緒ある二十五丁橋の袂に「眼鏡之碑」(注1)が建立されました。
これは、当時のめがね組合が彫刻家の安藤菊男氏(注2)に依頼し、縄文時代の遮光器土偶を原型にして製作されたものです。
以来、毎年10月上旬にはこの 「眼鏡之碑」を前にして、愛知めがね組合による「眼鏡感謝祭」が執り行われています。
〔写真=会場内に展示された「眼鏡之碑」のレプリカ〕
熱田神宮境内ご散策の折には、是非ご覧ください…。
愛知の眼鏡ブランド、ついに誕生!!
2011(平成23)年、愛知めがね組合から眼鏡のブランド「AA Aichi (エーエーアイチ)」が誕生しました。
AA Aichiは、単にフレームのブランドを表しているわけではありません。品質はもとより、レンズ選びのお手伝いから加工、フィッティ ング、アフターケア、そして高いレベルで眼鏡学を修めた眼鏡技術者が調製するという、信頼の眼鏡の証でもあります。
あなたの大切な眼と眼鏡のために…眼鏡のご用命は、愛知県眼科医会指定店へ。公益社団法人日本眼鏡技術者協会の認定眼鏡士に、お任せください。
AA Aichiのネーミングの由来は、安心(Anshin)、安全(Anzen)、愛知(Aichi)です。愛知めがね組合では、消費者の皆様のために、眼鏡技術者の国家資格制度の確立を推進しています。
アイリー (C)愛知めがね組合
{●-●}愛知めがね組合は、眼鏡士国家資格制度の法制化を推進しています。{●-●}