愛知の眼鏡今昔物語展|なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡

目次

エピソードを少しずつ公開します。 お楽しみに!

2013.09.01
展覧会の概要
2013.10.12
朝日新聞さんに紹介されました
2013.10.12
東海ラジオさんに紹介されました
2013.10.12
スターキャットテレビさんに紹介されました
スナップ写真
展示会場風景をご紹介
エピソード1
アイリー誕生 ・・・会場でこの展覧会をご案内いたします!
エピソード2
明治以前 ・・・天文年間に伝えられたザビエルの贈り物
エピソード3
南蛮貿易と眼鏡 ・・・長崎と名古屋を往復した水口屋の交易係
エピソード4
明治の眼鏡枠 ・・・職人による手細工から機械生産へ
エピソード5
大正の眼鏡 ・・・セルロイド枠の運命
エピソード6
大正の眼鏡 ・・・バネ式鼻眼鏡
エピソード7
雲浦事件 ・・・名古屋発! 業界を震撼させた特許紛争
エピソード8
招かれたレンズマン ・・・中部レンズ業界の祖、下村末吉翁
エピソード9
デスモンド講習会 ・・・熱血眼鏡業界人250余人が参集
エピソード10
眼鏡屋の丁稚 ・・・住込み、そして結婚や婚約についても…
エピソード11
昭和の眼鏡-○公 (まるこう) ・・・戦時体制下のフレームとレンズの単純化
エピソード12
お客様は進駐軍 ・・・ギブミーア…
エピソード13
日本初のコンタクトレンズ誕生の地 ・・・青い瞳の上に隠されたヒミツ
エピソード14
象さんの眼鏡 ・・・めがね娘が東山動物園でゾウ呈式
エピソード15
昭和の眼鏡-日本初のメガネファッションショー ・・・1955(昭和30)年に愛知県で開催
エピソード16
眼鏡屋の看板 ・・・たかが看板、されど看板
エピソード17
昭和の眼鏡-DCブランド ・・・高度経済成長期からバブルの時代まで
エピソード18
眼鏡之碑 ・・・なんと、熱田神宮境内に建立
エピソード19
平成の眼鏡-AA Aichi(エーエーアイチ) ・・・愛知の眼鏡ブランド、ついに誕生!

展覧会の概要

おかげさまで青年部は、設立25周年を迎えることができました!

展覧会名
愛知めがね組合青年部設立25周年記念
愛知の眼鏡今昔物語展〜なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡
日時
平成25年10月12日(土)〜10月14日(月・祝) 午前11時〜午後6時
場所
ギャラリータマミジアム (名古屋市中区錦3-24-12) ⇒ ご案内地図
料金
入場観覧料=無料
展示内容
愛知めがね組合加盟店が所蔵する明治・大正・昭和・平成の眼鏡や文献・写真資料等を展示。
主催
愛知県眼鏡小売商協同組合青年部会
協力
あいちトリエンナーレ2013・パートナーシップ事業(相互広報協力)
お問合せ
「愛知の眼鏡今昔物語展」事務局 ⇒ 電話:052-961-1826

ご案内

愛知めがね組合設立25周年記念「愛知の眼鏡今昔物語展」〜なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡


 愛知めがね組合青年部は1988(昭和63)年の発足以来、今年で設立25周年を迎えることができました。これもひとえに皆様のご協力のたまものであると深く感謝しております。


 これを機に青年部では、「愛知の眼鏡今昔物語展〜なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡」と称した展覧会を開催致します。


 本展におきましては、愛知めがね組合加盟店が所蔵する明治・大正・昭和・平成の眼鏡や眼鏡に関する貴重な資料を、実物や写真などで展示します。


 職人技が光る明治の眼鏡、大正ロマンを感じさせる眼鏡、戦時の画一的なデザインの眼鏡、そして戦後の高度経済成長期に愛知県で開催された日本初のメガネファッションショーの写真やハイテクを駆使した現代の眼鏡などを一堂に展示し、眼鏡の流行やデザインの変遷をたどることによって、楽しみながら眼鏡について学ぶことができます。何卒是非ご高覧ください。皆様のお越しを、心よりお待ち申し上げます。

  • 毎日先着20名様に、愛知めがね組合マスコット・キャラクター「アイリー」が描かれた特製メガネ拭きを進呈します。
  • 本展は「あいちトリエンナーレ2013・パートナーシップ事業」です。
  • 本展は名古屋市文化振興事業団(名古屋市民ギャラリー栄)主催の「アートギャラリー・画廊スタンプラリー・あいちトリエンナーレ2013拡大版」参加事業です。

朝日新聞さんに紹介されました

展覧会

愛知めがね組合青年部設立25周年記念 愛知の眼鏡今昔物語展〜なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡 ●愛知の眼鏡今昔物語展

12〜14日の午前11時〜午後6時、名古屋市中区錦3のギャラリータマミジアム(052・957・3603)。

 愛知めがね組合青年部設立25周年記念、あいちトリエンナーレ2013パートナーシップ事業として、同組合に加盟する店舗が所蔵する明治・大正・昭和・平成の眼鏡の実物や写真、眼鏡に関する貴重な資料などを展示。


 〔図版=朝日新聞2013年10月12日(土)朝刊愛知総合版「展覧会」より〕


東海ラジオさんに紹介されました

生放送公開インタビュー!

愛知めがね組合青年部設立25周年記念 愛知の眼鏡今昔物語展〜なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡


 東海ラジオさんの番組の中で愛知めがね組合青年部長の森達也氏がレポーターのさきみきさんから公開生放送インタビューを受けました。愛知の眼鏡今昔物語展について、ご紹介させていただきました。


愛知めがね組合青年部設立25周年記念 愛知の眼鏡今昔物語展〜なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡


 〔写真=レポーターのさきみきさんと青年部員たち(2013年10月10日)会場内にて〕


スターキャットテレビさんに紹介されました

公開収録インタビュー!

愛知めがね組合青年部設立25周年記念 愛知の眼鏡今昔物語展〜なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡


 スターキャットテレビさんの番組の中で「愛知の眼鏡今昔物語展〜なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡」が紹介されます。放映日時は、2013年10月15日(火)午後4時から。是非ご覧ください。


〔写真=2013年10月12日(土)午後4時30分頃、ギャラリータマミジアムにて収録〕


展示会場風景ご紹介

お気軽にご来場ください!

展示作品を解説する森青年部長。

〔写真=展示作品を解説する森青年部長。〕


古いものから新しいものまで、およそ400本の眼鏡を展示!

〔写真=古いものから新しいものまで、およそ400本の眼鏡を展示!〕


歴史的に貴重な資料も公開。

〔写真=歴史的に貴重な資料も公開。〕


明治時代の眼鏡店の店構えをご紹介。

〔写真=明治時代の眼鏡店の店構えをご紹介。〕


展示会場の様子。

〔写真=展示会場の様子。〕



エピソード1:アイリー誕生

アイリーがこの展覧会をご案内いたします!

 

 2011(平成23)年、愛知めがね組合にマスコット・キャラクターが誕生しました。名前はアイリー。


  メガネの妖精で、名前の由来は愛知の『愛』と目の『アイ(eye)』に、 フェアリー(妖精・fairy)の『リー』が合わさって、 「アイリー」になったと伝えられています。


 なお、住み処はメガネケースの中とも伝えられています。あなたのメガネケースの中を、そっと覗いてみてください。もしかすると…。


愛知めがね組合青年部スタッフ

 ご質問などは、会場内の担当青年部員へ、お気軽にどうぞ。


アイリーの眼鏡ケースや眼鏡拭きなども販売

 アイリーの眼鏡ケースや眼鏡拭きなども販売



エピソード2:明治以前

天文年間に伝えられたザビエルの贈り物

ザビエルの贈り物(発行:株式会社玉水屋) 眼鏡の伝来が最初に記録に現れるのは、1549(天文18)年、キリスト教布教のために日本に上陸したスペインの宣教師、フランシスコ・ザビエルが用意してきた土産品のリストです。


 眼鏡の製作については、1615(元和元)年から1624(元和10)年までの間に浜田弥兵衛が蛮国で眼鏡製作技術を習得して帰国したとされ、1634 (寛永11)年には明の僧、黙子如定(もくすにょじょう)が長崎で眼鏡の 製造法及び玉摺りなどを伝えたとされています。


 江戸時代の眼鏡枠の製作を手がけたのは、飾職のような立場の職人であり、 眼鏡はまさに手細工の賜物でありました。国内で製作された眼鏡の素材には、 白鼈甲・鼈甲・水牛・馬爪・木製・あるいは金属製のものなどがありますが、その大半は鼈甲・水牛・馬爪でした。金属製の枠は珍しく、幕末期になってようやく真鍮製のものが増加してくるようになります。


 〔図版=愛知めがね組合に加盟する眼鏡店が発行した社史『ザビエルの贈り物』(1991年)〕


エピソード3:南蛮貿易と眼鏡

長崎と名古屋を往復した水口屋の交易係

 1697(元禄10)年、京都で呉服を商う水口屋小川傳兵衛が名古屋に来て店を開きました。やがて水口屋小川傳兵衛は1795(寛政7)年、伊藤次郎左衛門などと肩を並べる尾張藩御用達商人になりました。 この水口屋で長崎と名古屋を往復し、廻船のことを担当した一人の交易係がいました。名を千歳屋庄三郎といい、長崎で珍しい舶来品があればこれを買い付け、名古屋へ送っていました。 さて、その庄三郎が長崎で見たものとは…。


 鎖国時代の南蛮貿易でオランダや清から珍しい品々が運び込まれる中、実は長崎には、眼鏡の製造方法や技術も伝えられました。長崎は当時、 国内最先端のを行く眼鏡業者の揺籃地でもあったのです。庄三郎が長崎で見たものの中には、舶来品の眼鏡や国産の眼鏡があったはずです。その庄三郎、子孫が眼鏡屋をはじめるようになるとは、夢にも思わなかったことでしょう。展示品は、眼鏡屋が今に伝える当時の名残です。


オランダ製遠眼鏡(江戸時代・長崎経由

〔図版=オランダ製遠眼鏡(江戸時代・長崎経由)〕


中国(清)製眼鏡(幕末の頃・長崎経由)

〔図版=中国(清)製眼鏡(幕末の頃・長崎経由)〕


金唐革眼鏡入れ

〔図版=金唐革眼鏡入れ〕


鮫皮漆塗眼鏡入れ

〔図版=鮫皮漆塗眼鏡入れ)〕


べっこう鼻眼鏡と専用眼鏡入れ

〔図版=べっこう鼻眼鏡と専用眼鏡入れ〕

眼鏡入れ

〔図版=眼鏡入れ〕


アイリー


名古屋市鶴舞中央図書館には、 江戸期名古屋の豪商・水口屋小川傳兵衛家に伝えられた『水口屋文書』が、 貴重な特別集書として大切に保管されています。

古文書の読める方は、おもしろいかも…。


エピソード4:明治の眼鏡枠

職人による手細工から機械生産へ

 明治初期の頃には、水牛や馬爪、真鍮などを材質とした紐掛け眼鏡や「松葉の頭痛おさえ」といわれた眼鏡、そして鉄や真鍮で作られた差込手の眼鏡などがありました。


 明治4年になると眼鏡用裏隙地金(玉を入れる溝金)が作られ発売されました。それまでは縁と玉の間に燈心を挿し込んで使用していました。築高眼鏡、いわゆる天狗といわれた形の眼鏡もこの頃に出ました。


 四つ折り眼鏡も鉄や真鍮などで作られ、明治7年頃には蟹手と称した、眼鏡の腕を内側に折り込むタイプのものが現れました。また鼻の形にわらび形を用いたり、眼鏡の腕に桐花形が用いられ始め たのもこの頃です。


 そして明治10年頃になると政府の近代化・殖産興業政策によって眼鏡の貿易が本格化し、国内においては眼鏡縁製作の分業が始まり、メッキの研究も進み、眼鏡は手細工職人による製作から機械生産のものへと移り変わり、量産されるようになりました。


支柱天狗眼鏡(明治時代)

〔図版=支柱天狗眼鏡(明治時代)〕


鼻眼鏡(明治時代)

〔図版=鼻眼鏡(明治時代)〕


こめかみ眼鏡

〔図版=こめかみ眼鏡(明治時代)〕


松葉鼻差し込み眼鏡(明治時代)

〔図版=松葉鼻差し込み眼鏡(明治時代)〕


松葉鼻眼鏡(明治時代)

〔図版=松葉鼻眼鏡(明治時代)〕


アイリー職人と技術者の間には相違がありますが、愛知めがね組合の青年部員は今年も 「尾張名古屋の職人展」に参加し、その心意気を伝えています。


エピソード5:大正の眼鏡-セルロイド枠の運命

セルロイド枠の運命

 セルロイド枠は1907(明治40)年頃、鈴木定吉(伊勢定)によって試作されたましたが、あまり製品として取り扱われませんでした。


 そして1917(大正6)年頃にアメリカから輸入された、いわゆるロイド眼鏡とよばれる形のセルロイド枠がようやく脚光を浴びることになります。これは、人気喜劇役者のハロルド・ロイドが映画の中で装用していたため、結果として良い宣伝となったためにブームを引き起こしたともいわれています。


 しかし、素材に用いられたこのセルロイド、長期にわたる光や酸素などの影響を受けると、元のセルロースと硝酸に分解・劣化して、べとついたり亀裂を生じやすいという欠点があります。このため長期保存には向かず、無傷で現存している眼鏡は多くありません。


 また、分解過程で強酸性ガスを発生させ、セルロイド自身や周辺の金属などを腐食させるため、眼鏡屋で大切に保管されているセルロイド枠も、時間の経過とともに劣化の一途を辿っています。本展を機に、今後はその保管方法について、検討を始める予定です。


セルロイド製鼻眼鏡

〔図版=セルロイド製鼻眼鏡〕


セルロイド製こめかみ眼鏡

〔図版=セルロイド製こめかみ眼鏡〕


アイリー


歴史の証拠品が消えてしまうようで、なんだか、さびしいよう…。


エピソード6:大正の眼鏡-バネ式鼻眼鏡

バネ式鼻眼鏡

 ヨーロッパでは19世紀後半になると、鼻眼鏡の人気が高まり、男女を問わず流行しました。鼻眼鏡のデザインは豊富になり、縁無しのものや鎖付きのものまで様々でした。


 1898年イギリスの『アンサー』という雑誌に、ある読者が鼻眼鏡を掛けることの利点について、次のように述べています。


  「ある種の顔が眼鏡を掛けることで見よくなるということは別として、眼鏡はそれを掛けている人間にとって本当に役に立つものである。私は家でも討論会場でも、議論をしている間眼鏡を掛けていること にしている。それをいじくりまわしている間に、私は自分の考えを正すことのできる貴重な数秒を、誰にも気づかれずに勝ち取ることができるのである。もっと長い時間が必要な場合には、私は巧みにその厄介物を鼻から落としてやることにしている。」


 (参考文献『メガネの文化史』 リチャード・コーソン著 梅田晴夫訳 1999年 八坂書房)


〔図版=鼻眼鏡(明治〜大正時代)〕


アイリー
おシャレな鼻眼鏡を掛けても落としてしまっては、鼻が高くいられませんね…。


エピソード7:雲浦事件

愛知・名古屋発! 業界を震撼させた特許紛争

 大正時代、全国の眼鏡業界に波紋を投じた雲浦事件。これは、当時フランクリン式と呼ばれていた遠近両用レンズの貼り付け玉に工夫された特許権争いで、1920(大正9)年に名古屋市南区熱田傳馬町の雲浦民藏氏が侵害訴訟を起こしたものです。


 東京がまず係争し、大阪にも波及。1921(大正10)年に東京側の業者が敗訴し、再度抗告審判を請求するに至りました。


 ところが、係争中であった1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生。特許局にあった関係書類はすべて焼失し、結局、無条件和解に持ち込まれました。


 当時、眼鏡業界を震撼させた名古屋発のこの係争問題は、今日でも業界の語り草となっています。


『雲浦式遠近両用眼鏡之意義』 雲浦民藏 (大正9年10月発行)『雲浦式遠近両用眼鏡之意義』 雲浦民藏 (大正9年10月発行)

〔図版(上)=『雲浦式遠近両用眼鏡之意義』 雲浦民藏 (大正9年10月発行)〕

〔図版(下)=当時の二重焦点レンズ〕

大正時代の二重焦点レンズ

アイリー

たった一人で業界や有力者たちを相手にした 雲浦民藏氏。なかなかのアイデアマンでした。


エピソード8:招かれたレンズマン

中部レンズ業界の祖、下村末吉翁

 1919(大正8)年、名古屋市東区新出来町に眼鏡のレンズ工場が誕生しました。レンズ工場の名は、当時共同で創業した眼鏡屋(玉水屋)とその出身者(柴田義一氏)のイニシャルに因んで、「TSレンズ工場」。


 しかし、餅は餅屋。質の高いレンズ製作にはやはり経験豊かで優れた知識を持つプロの技術者を必要としました。


 そんな折の1923(大正12)年、関東大震災が発生。当時国内最高水準にあった東京の松島商店レンズ工場長であった下村末吉氏も、この難を逃れることはできませんでした。


 この情報を入手したTSレンズ工場の経営者は、さっそく下村末吉氏をTSレンズ工場の工場長として招聘。東京から一家徒弟を引き連れてやって来た下村末吉氏指導のもと、TSレンズ工場はより質の高いレンズの効率的な生産を始めるに至りました。その後下村末吉氏は独立して「下村レンズ工場」を興し、中京レンズ業界の発展に大きく貢献しました。


 その徒弟からは、今日の愛知県下にある複数のレンズメーカーの創業者を輩出し、下村末吉氏は中部レンズ業界の祖として仰がれるようになりました。


在りし日の下村末吉翁(右)と柴田義一氏(左)

 〔写真=在りし日の下村末吉翁(右)と柴田義一氏(左)〕


下村末吉翁頌徳碑 〔下村末吉翁頌徳碑〕

アイリー
1960(昭和35)年、下村末吉氏を顕彰するため八事興正寺境内に『下村末吉翁頌徳碑』が建立されました。

ちなみに全国を震撼させた雲浦式遠近両用レンズを生産したのも、この下村末吉氏の工場です。

TSレンズ工場定価表(大正11年8月)

TSレンズ工場定価表(大正11年8月)

〔図版=TSレンズ工場定価表(大正11年8月)〕

TSレンズ工場生産レンズ専用袋(大正時代)〔図版=TSレンズの袋(大正時代)〕


エピソード9:デスモンド講習会

熱血眼鏡人250余人が参集

 1926(大正15)年2月8日から3週間にわたり、昼夜2回ずつ開講する未曽有の眼鏡学講習会が、大阪・長堀の大紙倶楽部で開催されました。


 講師を務めたのは、アメリカ・サウスブリッジにあるアメリカ眼鏡製造会社技師のデスモンド氏。アメリカ人から眼鏡学を学ぶという珍しさもあって、この講習会は大変盛況なものとなりました。


 また、「牛の目玉を毎日バケツいっぱい持ち込んで眼の組織を解釈する」という触れ込みもあって、北海道から九州までの好奇心旺盛かつ研究熱心な眼鏡業界人250余人がこの講習会を受講しました。


 名古屋地区からも11人の眼鏡マンが受講し、眼鏡学の黎明を肌で感じる貴重な機会となりました。そしてその中の一人の眼鏡マンが、やがてこの地に開設される眼鏡学校の礎を築くことになりました。


全国眼鏡学講習会(デスモンド講習会) 1926(大正15)年中之島市立図書館前にて撮影(玉水屋所蔵)

〔写真=全国眼鏡学講習会(デスモンド講習会) 1926(大正15)年中之島市立図書館前にて撮影(玉水屋所蔵)〕

米国眼鏡士デスモンド氏(『眼鏡学講習録復刻版』より 発行:大阪眼鏡専門小売協同組合1981(昭和56)年

〔写真=米国眼鏡士デスモンド氏(『眼鏡学講習録復刻版』より 発行:大阪眼鏡専門小売協同組合1981(昭和56)年〕


アイリー


眼鏡人ならば一度はデスモンド講習会の眼鏡学講習録を読んでおきたいものですね…。


エピソード10:眼鏡屋の丁稚

住込み、そして結婚や婚約についても…

眼鏡屋の丁稚(明治43年頃)

〔写真=眼鏡屋の丁稚(明治43年頃)〕


 眼鏡屋にも江戸・明治時代から第二次世界大戦の終結まで、「丁稚」という商店主育成制度がありました。ここでは眼鏡屋に伝わる戦前(昭和)の「店員手帳」と「清規」の中から、当時の丁稚制度がどのようなものであったのか、少しだけご紹介致しましょう。



清規

  • 【期間】
    在店期間ハ十ケ年トシ、コレヲ前後二期ニ分ツ。
    前期 ― 入店ノ年十六歳四月ヨリ徴兵適齢ノ二十一歳三月マデ。
    後期 ― 二十一歳四月ヨリ二十六歳十二月マデ。
  • 【階級】
    見習店員 前期間中
    店員 後期間中
    上級店員 前後二期ヲ終了シ、引続キ勤務スル者
    幹部店員 十五ケ年以上勤務シタル者
  • 【職責】
    見習店員ハ本業ノ技術習得ト共ニ販売実務ニ従事スルモノトス。
    店員ハスベテ店ノ中堅トシテ技術練磨ヲ計ルト共ニ販売に従事スルモノトス。
    上級店員ハ店員、見習店員ヲ指導シテ仕入、販売ニ従事スルモノトス。
    幹部店員ハ店主ニ代リテ全店員ヲ統率・指導シ、経営全般ニ参与スルモノトス。
  • 【給料・賞与・満期手当】
    給料・賞与ハ別表ノ如ク定ム。賞与は毎年六月、十二月ノ定期二回ニ興フ。但シ欠勤日数多キ時ハ賞与ヲ減額スルコトアルベシ。特別賞与ハ、毎年一回期末ニソノ年次ノ営業成績ト各自精励ノ程度ヲ考慮シテ支給ス。満期手当ハ金二百円トス。
  • 【待遇】  見習店員、店員ハスベテ住込トス。見習店員ノ被服、食住費ハ店持トシ、店員級ハ被服費ノミ店持トシ、食費ハ給料ヨリ控除スルモノトス。(別表参照)
    上級店員、幹部店員ハ被服食住費スベテ自辨トシ通勤ヲ認ム。但シ市内ニ居住スルヲ要ス。
  • 【積立貯金】
    見習店員、店員ハ月々ソノ支給金ノ内ヨリ別表ニ定ムル如ク一定額ヲ銀行積立貯金トスルモノトス。
    幹部店員、上級店員ハ月給、賞与ノ一割ヲ積立スルモノトス。
    積立金ノ預入ハ凡テ本人名儀ヲ以テスルモ、通帳ハ店主之レヲ保管シ、退店ノ際ニ交附スルモノトス。但シ上級店員、幹部店員ニアリテハ妻帯及ビ住宅ニ必要ナル費用トシテ積立金ノ半額マデノ支出ヲ認ム。(積立金ハ総額千百五十八円、他ニ賞与特別賞与満期手当ヲ加算スル時ハ概算二千円以上トナルヲ普通トス。)
  • 【病気・負傷】
    見習店員ハ軽微ナル病気・負傷ノ場合ハ、店ノ費用ヲ以テ医療ヲ受ケサセルモ、休業一ケ月以上ニ及ブ場合ハ帰休ノ上静養スルモノトス。店員級以上は自費医療。
     病中手当 二ヶ月マデ給料全額支給。以後二ヶ月マデ半額。以後停止。
  • 【兵役】
    店員ガ兵役ニ服シタル場合ハ、該当期間ノ二分ノ一ヲ延長シ勤務スルモノトス。
    入営中ノ手当トシテ、月給ノ三分ノ一ヲ支給シ、ソノ全額ヲ積立貯金トス。
  • 【結婚】
    結婚ハ二十七歳以上ニ達シタル場合。男女店員間の婚約ヲ認メズ。
  • 【慶・弔】
    兵役―入営ニ際シ餞別トシテ金一封ヲ呈上。
    結婚―紋付羽織・袴を贈呈。
    不幸―両親妻子不幸ノ際ハ弔慰金ヲ贈ル。
  • 【営業時間】
    四、五、六月―午前八時ヨリ午後十時迄。
    七、八、九月―午前七時半ヨリ午後十時迄。
    十二、一、二、三月―午前八時半ヨリ午後十時迄。
     但シ特別ノ場合ハ延長スルモノトス。営業時間中ハ無断外出厳禁。
  • 【退店】
    前後二期ヲ終了シ、退店スル場合ハ、別ニ定ムル満期手当金を支給ス。
    疾病ソノ他ノ理由ニヨリ休業六ケ月以上ニ及ブ場合ハ退店ト見做ス。
    怠惰ニシテ店務ニ精勤セズ、店則ニ違反シ或ヒハ不行跡ノ行為アリタル場合ハ退店ヲ命ズ。
  • 【其他】
    購買規定 店員ガ店ノ商品ヲ購買スル場合ハ、ソノ原価ニ一割ノ金額ヲ加算シタル値段ヲ以テス。
    表彰 満十カ年以上勤続シタルモノハ同業組合ヨリ表彰サル。
    修養 青年学校に通学ヲ許シ、講習会等ニ出席セシメ、又ハ旅行見学ヲセシム。
  • 十カ年給与表 (略)
    備考 積立金ハ月々給料ノ内ヨリ所定額ヲ差引キ積立貯金とナス。後期ニアリテハ食費ヲ自弁トナスヲ以テ月々給料ヨリ控除ス。経済事情ニ甚シキ変動アル場合ハ給料ソノ他ニ就キ変更スルコトアルベシ。

アイリー

丁稚制度は第二次世界大戦後、GHQの指令により労働法規が整備されたことや義務教育の年限が9年に延長された結果、「長期間の住み込みによる衣食住以外は無給に近い労働」という丁稚奉公のスタイルを維持することが困難になりました。丁稚を採用していた企業は近代的な契約による従業員に衣替えさせ、これにより、200年以上の歴史を持っていた丁稚制度は消滅しました。


エピソード11:昭和の眼鏡-○公 (まるこう)

戦時体制下のフレームとレンズの単純化

○公(まるこう)


 準戦時下ともいえる1936(昭和11)年、商工省の要請により臨時産業合理局眼鏡単純化委員会が設置されました。この委員会でフレームとレ ンズの規格標準化が決議され、翌年から実施されることになりました。


 その後1940(昭和15)年には愛知県指令によって名古屋地区の眼鏡小売協定価格が発表され、全国的に注目されました。これが翌年の商工省による公定価格決定の基礎づけとなり、同年にはいわゆる○公が施行されました。


 こうした戦時体制の進捗により、愛知の眼鏡業界も時代の大きな旋回期に突入せざるを得ませんでした。当時の眼鏡に括り付けられた○公のタグが、声なき声でその時代を物語っています。


眼鏡類公定価格表(眼鏡レンズの部)


眼鏡類公定価格表(眼鏡縁、保護眼鏡、眼鏡サック、拡大鏡の部)


アイリー


○公=まるこう (丸公) とは、日中戦争下の価格等統制令、および第二次大戦後の物価統制令による公定価格を示す表示のことです。眼鏡にとり付けられた「○公」印を、探してみてね!


ご参考までに昭和初期の眼鏡枠カタログをご紹介します。

1932(昭和7)年の眼鏡枠カタログ

1932(昭和7)年の眼鏡枠カタログ

1932(昭和7)年の眼鏡枠カタログ


エピソード12:お客様は進駐軍

ギブミーア…

お客様は進駐軍


 戦後の進駐軍もまた、眼鏡を購入するために眼鏡屋へやって来ました。言葉の壁こそあったものの、英語で書かれた眼鏡処方箋(ドクターによる、眼鏡を作る際の度数などを記した指示書)はほぼ共通で、眼鏡屋は正確な眼鏡調製をすることができました。


進駐軍による眼鏡処方箋


 進駐軍がもたらした眼鏡処方箋一枚の中にも、これからの時代には国際化や標準化が必要であることが見てとれます。


お客様は進駐軍


 そしてもう一つ、進駐軍と眼鏡屋の関係で忘れられないエピソードがあります。それは、今あなたが立っているこの場所(展覧会場)が舞台となりました…。



お客様は進駐軍


アイリー

ヒント…進駐軍の将校夫人さんが、と〜っても珍しいものを持っていたよ。 続きはこのあとのエピソードで!


エピソード13:日本初のコンタクトレンズ、誕生の地

青い瞳の上に隠されたヒミツ

日本初のコンタクトレンズ、誕生の地 1951年、当時眼鏡店に勤務していた田中恭一氏(当時19歳)が、米軍将校夫人との出会いをきっかけに、日本で初めての角膜コンタクトレンズを誕生させました。


 その後、田中恭一氏は株式会社メニコンの創業者となり、現在では会長としてご活躍されています。



   ●米軍将校夫人:私、コンタクトレンズを持っているのよ。

   ▲田中恭一氏 :なにそれっ!? ちょっと見せてヨ!

   ●米軍将校夫人:だめっ!

   ▲田中恭一氏 :それなら、自分で作っちゃうぞっ!

…当時、だいたいこんなやりとりがあったそうです。


ご参考…展覧会場を訪れたメニコン創業者の田中恭一氏(中央)

 眼鏡店勤務時代のお話から進駐軍将校夫人との出会い、そしてコンタクトレンズの開発秘話などをお聞かせいただきました。

展覧会場を訪れたメニコン創業者の田中恭一氏(中央)

〔写真=2013年10月12日(土)ギャラリータマミジアムにて〕


アイリー

「コンタクトレンズを見せてもらっていたら、自作せず、眼鏡店主になっていたかもしれません」とメニコンの広報さん。今も営業している玉水屋の店頭には、「コンタクトレンズ誕生の地」の記念板が掲げられています。お立ち寄りの際は、是非玉水ビル正面の外壁に据えられた記念プレートをご覧ください。


エピソード14:象さんの眼鏡

めがね娘が東山動物園でゾウ呈式

めがね娘が東山動物園でゾウ呈式


 1950(昭和25)年10月10日、全国一斉に行われた眼の愛護デーを機会に、名古屋市主催、中部日本新聞社後援として、「めがね娘」が募集されました。


めがね娘が東山動物園でゾウ呈式


 これは、特に眼の美しい健眼者及び正しい眼鏡を使用している衛生と調和美を持つ女性三人を選奨し、眼の愛護運動を推進することが目的でした。


 めがね娘の応募資格は、満18歳から25歳までの女性。審査員は画家太田三郎、美容師加藤芳子、名古屋市立大学病院眼科部長中村清一郎、 名古屋市保健部長曽我幸夫の諸氏で、選ばれた「めがね娘」3名には、賞金各5,000円、副賞として名古屋眼鏡協会賞が贈呈されました。


 また、この行事の一環として「象の眼鏡贈呈式」や「めがね娘街頭行進」、「街頭眼鏡検診」、「学童写生会」などが催され、新聞報道にも大きくと り上げられ、眼鏡業界初のキャンペーンとして注目されました。


アイリー


象さんの眼鏡は、ブリキ製だよ。


エピソード15:昭和の眼鏡-日本初のメガネファッションショー

日本初のメガネファッションショーは、1955(昭和30)年に愛知県で開催されました!

 1955(昭和30)年、愛知県文化会館にて日本初のメガネファッションショーが開催されました。当時発行されたプログラムの中から、愛知県文化会館美術館(現・愛知県美術館)の初代館長であった太田三郎氏による寄稿文をご紹介します。


メガネファッションショウによせて

名古屋大学眼科教授 小島 克


日本初「めがね」のためのファッションショウ 眼は心の窓といわれているが、日本の女性風俗史でも独自な浮世絵には春信、歌麿、国貞、英泉とそれぞれ独特な風装と女の眼を描いてそれぞれの時代を吾々に懐かしめている。


 女の人にはその人にふさわしい身だしなみや、やさしさや、その人の眼に独自な各々の美しさを秘めている筈である。


 眼鏡は女の人にとって必要以上に敬遠されている。外国の女の人たちの眼鏡のこなし方は吾々に奇異な感じを与えないが、それは全体のファッションの中に巧みに眼鏡が調和されて美しさを放っている為であろう。日本の女の人にもその人それぞれの服飾や姿態の中に眼鏡がうまくマッチされれば、徒に眼鏡を敬遠するという現在のあり方がよほど是正され近視に対しても効果をあげると思う。


 眼鏡をかける必要のある殊に女の方たちが、個性を生かす身だしなみとそれに調和した近代的な眼鏡の装用で本来の美しさを表現するという試みは、昭和の考現学からみても眼鏡製作の発達の上にも、眼鏡にたずさわる方々の新しい分野として有益な仕事である。


日本初「めがね」のためのファッションショウ 今回当地方としては初めての試みであるが諸方面の研究者の発表がある様でこれによって、服飾の中に生かされた眼鏡が、今迄眼鏡を敬遠された特に女の方々の眼の美しさにとって又、眼鏡を扱う方々にとって新しい感覚と考え方を与えられる事であろうと、近代的な試みとして秘かに期待するものである。


〔図版=『「めがね」のためのファッションショウ』プログラム表紙(発行:名古屋眼鏡商業協同組合/1955年=昭和30年4月15日)〕


眼の美 眼鏡の美

愛知県文化会館美術館長 太田三郎

(注1)(注2)


 眼はたゝ``ちにそれが人格である。肉体のすべてゝ``ある。ひいて、それが有つ魅力は絶対である。アナトール・フランスは眼の魅惑の反応を叙して、「美が起す悲壮な戦慄」といつてをり、江戸の文人は、「諸国諸大名の弓矢」に等しい力を、「本町三丁目糸屋の娘」の眼にみとめてをる。


日本初のメガネファッションショー


 おのづから、眼は人体の美しさの中心である。「古事記」が相婚の意味をまぐあい(目合)の語で表現してをるとほり、人体の感覚のすべてゝ``ある。だから古来、埃及の女は眼瞼をアンチモアーヌの墨で濃く太く縁取つて、特に眼のシヤルムを強調し、印度の女も黒いアンジヤナの粉末を瞼に塗つて眼を際立たせた。亜拉比やイスラエルの女たちもまた、同じ努力払つたことは、「千一夜物語」や「旧約聖書」の語るところである。


日本初のメガネファッションショー


 いま、名古屋眼鏡商業協同組合(注3)がゼミナールを催して、眼鏡と美容についの関聯を究めやうとするのも、これまた、しょせんは美に対する人類の希求として、数千年来の伝統の現れの一つを示すものであらう。眼そのものゝ自然の美しさを傷ふことなく、しかも装身のアクセサリイとして、その存在を理由づけ得るならば、この企ての効果は大きからう。


〔図版=『「めがね」のためのファッションショウ』プログラム表紙(発行:名古屋眼鏡商業協同組合/1955年=昭和30年4月15日)〕

  • 注1…愛知県文化会館美術館は、現・愛知県美術館の前身です。
  • 注2…太田三郎(おおたさぶろう):1884(明治17)〜1969(昭和44)年。愛知県生まれ。
  • 注3…1996(平成8)年9月、旧・名古屋眼鏡商業協同組合(昭和22年設立)と旧・愛知県眼鏡商業協同組合(昭和40年設立)が合併して、現在の愛知県眼鏡小売商協同組合となりました。

アイリー


パーテイの席では、ドレツシーに…。


エピソード16:眼鏡屋の看板

美術品になった眼鏡屋の看板

美術品になった眼鏡屋の看板 1960(昭和35)年夏、眼鏡屋の主人が奇抜な屋外広告看板の制作を陶芸家に依頼しました。アフリカ、コンゴ地方に住む部族の舞踏用仮面をモデルとしたこの看板は、長い間眼鏡屋の外壁に設置され、雨・風・雪にさらされる中、 店のシンボルとして親しまれてきました。


 ところがこの看板、年月を経るごとにその貴重性が高まり、いつしか美術品としての価値が与えられ、今では美術館や博物館などで展示されるようになりました。


「看板を作る」

文:河本五郎


美術品になった眼鏡屋の看板  津田さん(玉水屋七代目)が訪ねてきたのは、たしか、夏のはじめの頃だったかと思う。  津田さんという人は、なかなかのアイデアマンと聞いていただけに予感はあった。手に何やらパンフレットらしきものをヒラヒラさせているのも何か臭い。

 話しは、新しい店の表に何か焼物で作った彫刻様の「モノ」を取りつけたい。もち論、目を象徴した「モノ」を(看板とひとことも云わなかったのは陶芸に敬意を表してか?)、たとえばこんなものはどうでしょうと、くだんのパンフレットの一ページを私に見せた。

 素晴らしい目だ。頭の毛は抜けてしまった、アフリカ人の舞踏面である。アメリカの博物館で見てきたものであるよし。私は知った、眼鏡屋主人の惚れ込んだわけが。

 日本の古い伎楽面に共通したグロテスクなものだが、ハニワ土器の少女の目と同様、カラッポの球体をカミソリの刃でスーッと切り抜いたとき出来る、洞のような神秘性。しかし、奇妙に艶っぽい。

 なんとかその目を生かした「モノ」をと引き受けたものの、ドラムカン大の大物だけに手こずりながら、どうやら目を光らせたタコ坊主が窯から担ぎ出されたのはすでに秋近い頃だった。

玉水屋建築装飾用仮面(看板)河本五郎作品 落成式の日、玉水屋へ入ったら、半年近く悩まされた艶なるタコの目がギョロりと私をみつめていた。

(文:河本五郎/雑誌『名店百選』No.2/1965年名店百選会発行)

(写真:玉水屋建築装飾用陶芸品を制作中の河本五郎氏/1960年)


  • 河本五郎(かわもとごろう)1919(大正8)年-1986(昭和61)年/陶芸家)
  • 作品はこれまでに愛知県陶磁資料館、松坂屋美術館、瀬戸市文化センター、MOA美術館などに展示されました。

アイリー


たかが看板、されど看板・・・。


エピソード17:昭和の眼鏡-DCブランド

高度経済成長期からバブルの時代まで

1970年代に使用された眼鏡店DMはがきより。フレームはMETZLER Model No.5431(女性用)とModel No.3547(男性用)


 1960年代までの高度経済成長期の眼鏡フレームは、おとなしくてオーソドックス、そしてやや画一的なデザインが一般的でした。


 巷の服飾ファッションにミニスカートやパンタロンが流行するようになると、眼鏡にも個性や多様性が求められるようになり、やがて海外から個性的で大型のデザイナーブランドフレームが輸入されるようになりました。


 そして1980年代のバブル期が到来すると、高級ブランドの眼鏡フレームが次々と輸入されるようになり、また国内ブランドのものもDCブランドブームに乗じて、眼鏡も個性を競う時代となりました。


〔図版=1970年代に使用された眼鏡店DMはがきより。フレームはMETZLER Model No.5431(女性用)とModel No.3547(男性用)〕


アイリー
大型化したデザイナーブランドの眼鏡を陰でささえたのは、プラスチックレンズの普及でした。昭和50年代後半の市場ではガラスレンズを抜き、その後もめざましい技術革新によって高品質化、高性能化、高機能化し、今日では眼鏡レンズの主流素材となっています。


エピソード18:眼鏡の碑

なんと、熱田神宮境内に建立された「眼鏡之碑」!

眼鏡之碑 1982年(昭和57年)10月10日、熱田神宮境内の由緒ある二十五丁橋の袂に「眼鏡之碑」(注1)が建立されました。


 これは、当時のめがね組合が彫刻家の安藤菊男氏(注2)に依頼し、縄文時代の遮光器土偶を原型にして製作されたものです。


 以来、毎年10月上旬にはこの 「眼鏡之碑」を前にして、愛知めがね組合による「眼鏡感謝祭」が執り行われています。


  • 注1…碑文紹介
     眼鏡業にたずさわる私達は、八尺勾◆之五百津御須麻流之玉を造らせ給う玉祖命(櫛明玉命)を祖神として崇拝し、眼鏡の功徳に感謝しつゝ、生業にいそしんでまいりました。
     今年は恰も、名古屋眼鏡商業協同組合六十周年に当りますので、熱田神宮の御許可を得て、縄文時代のめがね(遮光器)をつけた世界に類を見ない貴重な土偶(青森県出土)を、二科会彫刻部の重鎮、安藤菊男先生により復元製作いただき、顕彰碑とし境内にて建立
     広く国民一般の方々に啓蒙、精神文化向上の一助にしようと念願するものであります。
    ※◆部分は旧字体。
  • 注2…安藤菊男(あんどう きくお):1916(大正5)-1990(平成2)年。二科会評議員。

会場内に展示された「眼鏡之碑」のレプリカ

〔写真=会場内に展示された「眼鏡之碑」のレプリカ〕


アイリー


熱田神宮境内ご散策の折には、是非ご覧ください…。


エピソード19:平成の眼鏡-AA Aichi

愛知の眼鏡ブランド、ついに誕生!!

2011(平成23)年、愛知めがね組合から眼鏡のブランド「AA Aichi (エーエーアイチ)」が誕生しました。


 2011(平成23)年、愛知めがね組合から眼鏡のブランド「AA Aichi (エーエーアイチ)」が誕生しました。


 AA Aichiは、単にフレームのブランドを表しているわけではありません。品質はもとより、レンズ選びのお手伝いから加工、フィッティ ング、アフターケア、そして高いレベルで眼鏡学を修めた眼鏡技術者が調製するという、信頼の眼鏡の証でもあります。


 あなたの大切な眼と眼鏡のために…眼鏡のご用命は、愛知県眼科医会指定店へ。公益社団法人日本眼鏡技術者協会の認定眼鏡士に、お任せください。


アイリー
AA Aichiのネーミングの由来は、安心(Anshin)、安全(Anzen)、愛知(Aichi)です。愛知めがね組合では、消費者の皆様のために、眼鏡技術者の国家資格制度の確立を推進しています。


青年部設立25周年記念事業

愛知めがね組合青年部設立25周年記念「愛知の眼鏡今昔物語」なるほど!明治・大正・昭和・平成の眼鏡

マスコットキャラのつぶやき

愛知めがね組合のマスコットキャラクターです。よろしくね!

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通称:愛知めがね組合

{●-●}愛知めがね組合は、眼鏡士国家資格制度の法制化を推進しています。{●-●}

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